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Vol.7 光の都アリカンテ

Vol.7 光の都アリカンテ

2020/04/28


サンタ・バルバラ城(Castillo de Santa Bárbara)

 ¡Hola!(オラ!)こんにちは。今回の記事では、アリカンテが今こうして存在するまでの歴史について、時代を追ってご紹介します。一見ありふれたビーチリゾートに見えるこの都市には、スペインの歴史の中で重要な戦いの終点であったり、アラブ・イスラム文化との融合があったりなど、知られざる裏側が隠されているのです。

光の都

 アリカンテの周辺では、7,000年以上前から人々が生活していたと言われており、紀元前3世紀頃にフェニキア人の植民地カルタゴ(現チュニジア)の名門一家によって街が建設されたとされています。当時の呼び方は「アウラ・レウケ(Akra Leuka)」。その後カルタゴがローマ帝国に支配されたことでローマ統治下となり、「ルセントゥム(Lucentum)」と呼び方が変わりました。
 さてこの2つの呼び名ですが、どちらも同じく「光の都」という意味なのです。なんでもアリカンテを発見・建設したカルタゴの人々は、太陽の光がいつでも降り注ぎ、海と大地がそれを反射し白く輝く様をみて、この街を「白い街、光の都」などと呼んだのだそうです。
 ちなみにローマ統治下で名付けられたルセントゥムは、現在のアリカンテ中心街である「ルセロス(Luceros)」の原型となっているそうです。スペイン語で光はルス(Luz)というので、アリカンテの風景にぴったりのとても素敵な名前だなと思います。「アリカンテのすべてはルセロスにある」という言葉をよく耳にしたのですが、これは単に繁華街という意味ではなく、アリカンテの礎という意味もあったのだなと改めて思いました。


光が降り注ぐ街の様子

サンタ・バルバラ城とイスラム文化

 8世紀頃になると、スペインは南部から徐々にイスラム勢力のウマイヤ朝に支配されていきます。アリカンテも征服され、9世紀にベナカンティル山の山頂にある有名な要塞が建設されました。その後も後ウマイヤ朝やタイファ諸国による支配が続き、13世紀のレコンキスタ(国土回復運動)によってキリスト教徒に奪還されるまで、アリカンテはイスラムの統治下にありました。13世紀にアラゴン王によってバレンシアが征服され、カスティーリャ王によってアリカンテも奪還されました。その時、この要塞はキリスト教の聖バルバラという聖人にちなんで、「サンタ・バルバラ城」と名付けられました。その後、1496年にアラゴン連合王国・カスティーリャ王国両国が連合し、スペイン王国が誕生してアリカンテはその貿易基地として栄えていきました。
 現在のサンタ・バルバラ城は16世紀から18世紀にカトリック教徒の手によって修復と増築がなされたため、もとのイスラムの面影は残っていません。しかし城内では当時の発掘品や壁のかけらなどが展示され、要塞として利用されていた当時の名残を見ることが出来ます。今こそ観光色が強く、街のランドマークや展望台として人気を集めていますが、ぜひ歴史背景も踏まえて場内の展示を見てみてください。きっとまた違った楽しみ方が出来ると思います。もちろん、頂上の絶景もお見逃しのないように!
 アリカンテ市内から城のある山頂への行き方は色々ありますが、一番簡単なのは、ビーチ沿いのエクスプラナダ通りを抜けた先にある、頂上行きのエレベーターを利用する方法です(料金往復2.7€、日本円で約324円)※1
 私のおすすめは、ルセロス駅からまっすぐ伸びる大通りの先にある遊歩道から徒歩で行くルートです。山頂までは20分前後歩かねばなりませんが、道の途中で見られる景色は山頂とは違った美しさがあります(写真二枚目)。城自体の入場料はかかりませんので、少し体力に余裕があればぜひ歩いて登ってみてください。また夜はライトアップされるので、幻想的な風景と共に夜のお散歩として足を運んでみるのもおすすめです。


城内随所にいる兵士の像(他にも砲台など、要塞らしい装備が設置されています)

スペイン内戦とアリカンテ

 時代は少し進み、19世紀末のアリカンテは国際貿易港として繁栄しました。また第一次世界大戦時には、スペインが中立を保った恩恵で産業や農業が発達しました。1920年代後半にスペインは政治不安に陥り、当時の国王が亡命したことで第二共和政がスタートしました。しかしその後のフランコ政権の台頭により、共和政の人民戦線政府との対立が起きたことで始まってしまったのが、スペインの歴史を語るうえで最も重要な戦争であるスペイン内戦です(1936–1939)。多くの市民が犠牲となり、あのピカソの最も有名な絵画の一つである『ゲルニカ※2』は、この戦争で行われた爆撃がテーマとなっています。
 実はこの戦争とアリカンテの間にも、深い因縁が存在しています。戦時中に、人民戦線政府を次々と制圧していったフランコ率いる反乱軍は、ついにスペインほぼ全土を攻略しかけていました。そしてアリカンテは、人民戦線政府が所有していた最後の砦となる地域でした。政府に忠誠を誓い、粘り強く耐えていたアリカンテでしたが、1939年4月1日にはフランコによって陥落してしまいました。占領前には、反乱軍に協力をしていたイタリア軍によるアリカンテ爆撃が起き、300人を超える罪なき市民の命が奪われました。ちょうど市民が朝の買いものに出ていたときだったそうで、爆撃を受けた中央市場(メルカド・セントラル:Mercado Central)では多くの人が犠牲となってしまったそうです。今でもこのメルカドには、犠牲者を弔う石碑が建てられています。


メルカド・セントラル

 またアリカンテの地下には、94の防空壕が眠っています。現在入場見学が可能なものは限られていますが、私はそのうちの2つを見学しに行きました。
 一つ目のR31は非常に奥行きのある深くて広い防空壕で、ここはスペイン内戦時に多くの市民が隠れていたそうです。内部は暗く湿っていて、小さな医務室と人が2、3人地べたに座れるほどの壁穴がずらっと並んでいました。こちらでは実際の爆撃音を体験することができ、地下の暗くて寒い空間で身を寄せ合って攻撃が止むのを待つ市民の姿が目に浮かぶようでした。
 この防空壕内でのルールは、決して声を出してはいけないこと。敵に見つからないようにする目的はもちろんですが、もしかしたら市民に紛れてスパイがいる可能性があったので、情報を漏らさないためでもあったそうです。どんなに恐ろしくても、悲鳴一つあげられない状況の過酷さが感じられました。もう一つのR46は許容人数が25人ほどの小さいものでしたが、部屋のような区切りがいくつかありました。


防空壕の壁に書かれていた文字。意味は「警報が鳴る間、声を出してはいけない」

 いかがでしたでしょうか。今やアリカンテと言えばヨーロッパ有数のビーチリゾートとして、観光と貿易がメインの街と思われていますが、歴史を遡るとスペインという国が形成され、今のかたちに至るまでの多くの爪痕が残された街でもあります。またイスラムの支配下にあった時代の名残が旧市街の随所に残っており、ヨーロッパのような建築とアラブ・イスラムの様式が混ざり合う不思議な街並みを観察することができます。
 ぜひ、アリカンテに訪れる際にはこうした歴史の一コマを拾うような楽しみ方もしていただければと思います。本稿がその理解の手助けとなれば幸いです。

 次回は、スペインの宗教事情やアリカンテの宗教行事・施設などについてご紹介します。現在、新型コロナウイルスの影響で全世界が大きな打撃を受けています。その中でもスペインは被害が特に大きい国のひとつなので、応援の意味も込めて書きたいと思います。すべてが終息した後、読んでくださった皆様が行ってみたいと思う場所になれば嬉しいです。

※1……1ユーロ=120円で換算

※2……『ゲルニカ』はスペインの画家の巨匠パブロ・ピカソが手掛けた作品で、スペイン内戦時に爆撃を受けたバスク地方ゲルニカが舞台となっています。ピカソ独自の強烈なタッチで戦争の悲惨さを描いた、彼自身の最も有名な作品の一つとなりました。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターで見ることができます。

ライター:NANA

東京都八丈島出身。趣味は読書とお散歩で、旅行雑誌を読んで行った気分になるのが好き。スペインの好きなところは、一瞬一瞬を楽しむことに全力を注ぐスペイン人の生き方と、美味しい食べ物。スペインのアリカンテ大学(バレンシア州)への留学体験記を執筆中の、フラメンコを踊れるライター。

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